不遇続きのバスケ人生…それでも前向きに反骨精神で這い上がり「バスケで生活できるようになった」(金沢武士団 #38 井手勇次選手)

脂が乗ってきた“88年組“の活躍が目立つ。日本代表を見ても篠山竜青選手(川崎ブレイブサンダース)、橋本竜馬選手、金丸晃輔選手(ともにシーホース三河)、初選出された中西良太選手(熊本ヴォルターズ)もみな同じ29歳を迎えた世代。学生時代からその名を馳せてきたBリーガーだけに、旧友対決にスポットライトがあてられる機会も多い。例えば、北陸高校出身の篠山選手と多嶋朝飛選手(レバンガ北海道)の戦いは昨シーズンも話題となった。その記事を見ていた一人の選手が「俺もいるのに!」と吠えている。「そこに俺の名前がないのは正直、イラッとしました」とフラストレーションを溜めているのは、北陸高校で得点を獲りまくっていたもう一人、井手勇次選手だ。B3から昇格した金沢武士団におり、同じステージに立つべく必死にがんばっている。

納得いかなかったB3の格差と待遇

Bリーグ元年の昨シーズンはバスケの強さではなく、資金面などライセンス基準に準じて運営会社が査定されB1〜B3に振り分けられた。
「bjリーグ時代はB1にいるチームにも勝っていたわけです。そのプライドを持ってB3でも戦ってきたし、B2に上がったからといって2年前となんら心境の変化もない。逆にあの時以上に反骨精神があります。契約更改時、振り分けられただけのB3だったにも関わらず、評価が劣るのにも納得がいかなかった。BリーグのサイトにもB3は載っていないし、スポナビでも放送されない。こんなに格差があるのかって思ったし、ものすごく悔しかったです」
井手選手の正直な気持ちであり、同調する選手やそれを支えるファンも多いことだろう。

昨シーズン、B3を宣告されたチームは成仏できない幽霊のようなものだ。創設から2年間、プレーし続ける生え抜き選手が6人もいる金沢だからこそ、その怨念も強い。
「特に月野(雅人)や(与那嶺)翼さん、僕も含めてbjで戦っていたというプライドは強い。B3レベルと見られているからこそ見返してやりたいし、その意気込みのままB2に乗り込んできました」

B3と比較すれば、「毎週のようにタフな試合が続く」という印象を持つ井手選手。「負担は大きいけど、楽しい方が強い。当然やれるという手応えは変わらずに持っています」。平均20点を挙げることを目標に掲げ、「インパクトを残していきたい」と鼻息は荒い。取材した翌日(11月12日)のアースフレンズ東京Z戦は、早速公約通りに25点を挙げていた。

大学卒業後、社会人となって行き場を模索

早稲田大学卒業後、1度バスケを引退し、就職した経験を持つ。その事実だけを聞いていたので、バスケへの情熱が冷めたのかと思っていた。
「今だから本当のことを言えば、僕はずっとトップリーグ(当時JBL)でやりたかった。父が日立(現サンロッカーズ渋谷)の選手だったいうのも大きい。実は実業団チームから内定ももらっていたけど、土壇場で契約を交わせなかったんです」

強豪校で研鑽を積んできた井手選手だったが、自分の意志とは違う形でそのレールから脱線してしまった。「そういう運命なのかな」と潔くバスケから足を洗い、自分を変えるため、次の目標を見つけるために就職を選択。卒業まもない頃、JBLを観に行けば「このレベルでもできる自信があった」、強いと言われるクラブチームでプレーをしても「物足りない」。bjリーグへ進む道もあった。しかし、元トップリーグ選手の父はその実情も知っており、「プロになっても引退した後にどうするんだ」と正論を突きつけられる。その質問に対する答えや知識、資格もなかった当時の井手選手は諦めるしか道はなかった。

卒業時は、東日本大震災に見舞われたときである。誰もが不安を感じ、先が見えない思いもした。予定された新人研修が延期となり、ふと時間が空いたときに自分自身へ問いかけてみた。
「バスケが好きだからこそきついことも乗り越えられてきたけど、今の環境でダラダラと過ごすのは自分の性に合っていないのではないか」
研修期間を終えた6月末には退職し、再びバスケのレール上に戻ってきた。

相次ぐ契約破棄!? 不遇続きのバスケ人生にようやく光が差し始めた

一度外れた歯車を戻すのは簡単ではない。再び歩み始めたバスケ人生は、不遇の連続に見舞われた。年表にしてみよう。

■2011年

  • TGI Dライズ(以前あった栃木ブレックス下部チーム)へ書類を送る
  • 同時期にレバンガ北海道のトライアウトを受け、合格
  • 契約へ向けた面談に備えていたが1ヶ月間連絡なし。ようやく電話が来るも合格が破棄されたことを告げられる
  • 早稲田大学時の先輩や多嶋選手の伝手を使って再びTGI Dライズの門を叩く
  • たまたま書類審査を通過していたのは井手選手だけであり、誰も採用していなかったことでその枠に滑り込む
  • TGI Dライズの一員ながら、プレシーズンゲームはブレックスの一員としてデビュー
  • そのシーズンはTGI DライズとしてJBL2(下部リーグ)のコートに立つ

「川村(卓也)さん(現横浜ビー・コルセアーズ)にはすごくよくしてもらいました。いろんな相談をして翌シーズンはbjリーグに行くことを決めました」

■2012年

  • ドラフト1巡目で島根スサノオマジックに入団
  • ドラフト指名はジェリコ・パブリセヴィッチヘッドコーチの意向ではなかったこともあり、「シュートを打つな」と井手選手の武器が封印させられる
  • 理不尽とも言える指示を受け入れ、別のプレーでもヘッドコーチに認められるよう努力する日々
  • その努力の甲斐あり、少しずつプレータイムが与えられる
  • 最後は、翌シーズンから和歌山トライアンズで指揮を執ることになったヘッドコーチに「一緒に行こう」と誘われるまでの信頼を勝ち獲った

「これまでのスタイルを否定され、すごく怒られました。それでも僕はジェリコさんの言うことに従って、半年間以上ガマンして練習中でもシュートを全く打たずに、それ以外の部分でアピールできるようにしていたら、信頼を得て試合に出られるようになったんです」

■2013年

  • 和歌山に誘われるより前、デイトリックつくば(JBL2)と契約に至る
  • しかし開幕前に経営難で運営会社が変更となり、契約自体が白紙になる
  • 埼玉ブロンコスからオファーを受けるが、翌日「別の選手で決まってしまった」と断られる
  • 早稲田大学の先輩が手を差し伸べ、東京サンレーヴスの入団が決まる

「島根にいましたが、急きょ呼ばれて翌日の朝一に航空券を買って東京へ。その日、しっかりとパフォーマンスを見せたことで合格をもらいました。提示されたのは、『東京なのにこれで生活できるんですか?』という程度の年俸です。でも、行き場はない切羽詰まった状況だったので、交渉さえせずに入団を決めました」

迎えたbjリーグ2013-14シーズン、そのシーズンを制した琉球ゴールデンキングスとの開幕戦でいきなり34点を挙げ、ようやく本来の姿が戻ってきた瞬間である。(その当時の模様は当サイト内「ノリノリトーキョー」で紹介してます

しかし、井手選手の不運はまだ終わりではなかった。2シーズン、東京Cでプレーした後、新規参入した金沢へ移籍。すでに紹介したとおり、Bリーグ元年はB3でのスタートを告げられ、陽の目を浴びることのない戦いを強いられたわけである。

振り返れば、波瀾万丈のバスケ人生だった。それでも、その才能を己が信じて諦めずに突き進み、壁が立ちふさがっても多くの人たちが手を差し伸べてくれた人望の持ち主でもある。
「いろんなことがあったけど、それでもバスケで生活できるようになった。今だからこそ、子どもや若い人たちに僕の経験を伝えていきたいです。良い悪いは別にして、自分がプロになった経緯を子どもたちに話すことで、何かのきっかけにしてもらいたい。バスケを通して触れ合う活動はすごく意義があると思っています」

「B2にいたら、試合できねぇんだよ!」と発破をかける旧友

昨シーズン開幕早々、アウェー戦に臨むもチーム全体が食中毒を起こし、その試合自体が中止になる。不運続きの井手選手に、めずらしくLINEをしてきたのは旧友、篠山選手だった。「『大丈夫?』とともに、『早く上がって来いよ!』」というメッセージが送られてきた。悶々としていたB3の現実を目の当たりにした頃であり、さらに奮起する。早くB1と対戦して実力を示したいと息巻いていたが、そのチャンスを自ら逸した天皇杯2次ラウンドの敗戦(●81-82茨城ロボッツ)が悔やまれる。

井手選手に取材をした翌日、川崎戦で篠山選手にもメッセージをいただくと、「すごくガムシャラなファイターなので、正直言ってやりたくない」と切り出す。井手選手が、「たぶん篠山は僕とのマッチアップを嫌がると思う」と言っていたとおりだった。
「B1でやれる力は持っている選手です。大学卒業後、1度はサラリーマンになり、そこからプロになった選手でもあるので、すごく強いメンタルを持っている。B1で待ってるんで早く上がって来い」

去り際、「B2にいたら、試合できねぇんだよ」と付け加えてくれた。このように言い合える仲がうらやましい。北陸高校出身の29歳は篠山選手と多嶋選手だけではなく、井手選手がいることもお忘れなく。

金沢武士団

文・写真 泉 誠一