【全文掲載】女子バスケットのレジェンド初対談!大神雄子×萩原美樹子の「女子バスケ温故知新」②WNBA〜道を切り拓いた2人

「また挑戦できる場所ができたことはうれしいなと思って、決めました」(萩原)

――そこから大神さんは、一年ほどコートに立てないシーズンもありましたが、17年現役生活を送りました。

萩原 17年はすごいね。私は実質10年ちょっとだったから、そう考えるとほぼ倍に近い。

大神 まぁ、上には上がいますけどね(3×3の矢野良子選手は5対5だけで20年プレーした)。

萩原 すごいなと思うのは、当時のJOMOの練習を見に行くとシンはいつも何か新しいことに取り組んでいるの。「ちょっと今、こういうことをやりたくて」って。あれだけ長くプレーして、日本のトップにいるのに、行くたびに目をキラキラさせて「今、これができるようになりたくて」と、ストレングスコーチと2人で延々と自主練習をしている。あの情熱はちょっとすごいです。こんな子ってこれまでいないと思います。

――ご自身が現役のころもいない?

萩原 もちろんそうだし、そもそも女子にそういう選手がいない。どちらかというと男子の感覚に近いんですよ。「こういうプレーができたらかっこいいから練習する」という感覚はもはや男子の感覚。女子はいかに練習時間まで休むか……もちろんそれが悪いという意味ではないけど、いかに温存するかを考えるんだけど、シンは練習前に力を使い切っちゃう(笑)。そうすると、こちらとしても「今度は何に取り組んでいるわけ?」とつい期待しちゃう。それは本当にすごい。たぶん、最後までそうだったんだと思います。

大神 そうですね。トヨタ自動車アンテロープスに入ってからも同じです。むしろそのころは食生活とか、睡眠学とか、そっちにも興味を持ち始めたこともあって、24時間の使い方がここ数年のテーマでした。それでもオーさんが見に来てくれると、それこそ“ドペーペー”のときから見てくれているので、「オーさん、見てください。今これをやっているんですよ」って見てほしくなるんです。「今アメリカではこんなことをやっているんですよ」って話に行っていました。

萩原 そうそう。

――大神さんにとって萩原さんは特別な存在の1人ですか?

大神 そうですね。やはりそこはWNBAが大きいです。オーさん以外にも素晴らしい先輩たちがたくさんいますけど、WNBAの生活は独特で、あの生活、あの環境を知っていることで安心して、身を委ねてしまうところはありますよね。言葉、文化、環境すべてが日本とは違ったので、それをほかの人にわかってもらおうとは思わないですけど、オーさんはそれを知っているので、何かあるとオーさんに委ねたりするんです。

萩原 そうだよね。

――萩原さんはWNBAが立ち上がった1年目からそこでプレーしているわけですが、まさか自分がそこでプレーするとは……

萩原 思っていなかったです。

――大神さんの夢は初めからそこで……いや、幼いころの夢はWのつかないNBAだったわけだけど……

萩原 そこでNBAっていうところがすごい(笑)。

――それは置いておいても、大神さんにはWNBAという夢の舞台があったわけだけど、萩原さんはリーグ発足と同時にWNBA入り。よく飛び込めましたね。

萩原 1996年にアトランタ五輪があったでしょう。でも五輪って一度出場して、そこそこのパフォーマンスが出せると燃え尽きるんですよ。次の目標をどうしようかと。だからアトランタ五輪があった年の、そのあとの国内リーグは惨々たるものだったんです。特に五輪に行ったメンバーはその疲労もあるし、何といっても五輪に照準を合わせて、メンタルも一番高いピークに持っていっていたから、もちろん国内リーグがつまらないとは思わないんだけど、国内のルーティンに戻ったら、ドッと疲れてしまう。だから五輪を最後に現役を終える選手もいたほどです。もう続けられないって。アトランタのときは私もチームの主力だったし、五輪のあと、どうやってバスケットに対してモチベーションを持っていこうと考えていたときにアメリカの話が来たんです。もちろん考えましたよ。アメリカに行こうなんて考えてもいなかったし、それこそ高校を卒業したあとは大学に入って、学校の先生になろうと考えていたくらいで、もともとバスケットで食べていこうなんて思っていなかったら。そんな私にアメリカと言われても……と考えたんだけど、バスケットを続けるうえで新しいステージというのはみんなが行けるわけではない。私の仲間にも何人かいたんですよ。アメリカに行ってみたいって考えていた選手が。

大神 へぇ……そうなんですか?

萩原 そう。でもそのときにドラフトにかかったのは私だけだったの。

大神 そうだったんですね。ほかにも(アメリカに行きたいって人が)いたんですね。

萩原 いた、いた。ジェット(中原(旧姓・加藤)貴子さん)もそう。ジェットはそのあとイタリアでプレーしているからね。

大神 そうですよね。そうだ、ジェットさんはイタリアに行っていましたね。

萩原 村上……今は岩屋(睦子)さんだけど、彼女は当時ニューヨークのチームにトライアウトを受けに行って、結構いい感触だったみたい。

大神 (ニューヨーク・)リバティーですね。

萩原 そう。みんな、すごく海外に興味を持っていて。

大神 それは知らなかったです。

萩原 やっぱりオリンピックに行くとそういう話も出てくるよね。そうやって行きたいと思っている人がいるなかで自分は誘ってもらって、また挑戦できる場所ができたことはうれしいなと思って、決めました。

大神 そうなんですね。

アテネ五輪の裏話〜ベンチプレス×アイスクリーム〜

――大神さんはいつからWNBAに本格的に興味を持ち始めましたか? 五輪からという意味では、アテネ五輪のときはまだ“ドペーペー”だったわけでしょ。

萩原 もう“ドペーペー”はいいよ。

――いや、この“ドペーペー”って言葉がツボにハマりました。いただきます。

萩原 いや、本当に“ドペーペー”だったんですよ。アテネでも試合がある日に「よし、シン、今日もウェイトトレーニングに行くぞ。マックスで上げるぞ!」って(笑)。

大神 そうそう。余談になるけど、ベンチプレスを70キロ上げたら、オーさんがアイスクリームを買ってくれるって言うので、自分、マジで死に物狂いで上げたんです(笑)。これがアテネの思い出のひとつです。

萩原 オリンピックで何をやってんだか……(笑)。

――え、オリンピック期間中ってことですか?

萩原 そう、選手村のなかで。

大神 試合が続くのでチームとしての練習量も落ちてくるじゃないですか。でも自分はまだ若かったので、どれだけやっても疲れないし、出たら出たでマックスでやれる自信もあったので、毎日のようにウェイトトレーニングに行っていたんですよ。で、ベンチプレスの70キロ……この「70キロ」というのが当時の壁で、67.5キロとかは上げられるんですけど、2.5キロを足した70キロがなかなか上げられなかったんです。でもオリンピック期間中に上げて、オーさんにアイスクリームをごちそうしていただきました。

萩原 ハハハ(笑)。

大神 それは忘れない。

萩原 何やってんだかって話だよね(笑)。

「日本人で初めてファウルアウトしました」(大神)

大神 すいません。で、WNBAについては、オーさんが日本人初の選手で、アトランタ五輪が終わったあとから発足されたという歴史も知っています。ただ自分がどのタイミングで行きたかったかといえば、正直な話、もう少し後です。アメリカに挑戦したいという気持ちはジャパンエナジーに入社するときからあったんです。ただすぐにWNBAというのはまだ遠い存在だと思っていたので、現実的にはまずアメリカの大学に行きたいなと思っていました。桜花学園を卒業して、ジャパンエナジーに入社した年の7月に世界ジュニア(現・FIBA U19女子ワールドカップ)がチェコ・ブルノであって、チームの成績こそ最下位から2番目だったんですけど、自分が得点王を獲得して、そのときにいくつかの大学から声をかけてもらったんです。アメリカの大学は9月からなので。当然「行きたい」という思いになりますよね。でもそのときはすでに入社していたので行けるわけもなく……ただそのときから海外に本気で目が向き始めました。いつか海外に行くんだ! って気持ちになって、じゃあ、ジャパンエナジーで何年プレーしたら海外に行けるんだ? と。毎年シーズンオフになると、ジャパンエナジーの部長に「今年は挑戦させてもらえますか?」プッシュしていました。でも(会社側は)「まだじゃないか?」って……

萩原 会社側としてはそう言うよね。

大神 そう、「もうちょっと待て」と。しかもWリーグのシーズンが終われば、日本代表の活動も早めに動き出すので、シーズンが終わったらそのまま少し休んで代表活動に入って、遠征、遠征、遠征……。気持ち的に遠ざかっていたわけではないけど、そんな感じでした。

――2004年のアテネ五輪以降、徐々に女子日本代表も大神さんがチームの中心になっていくから、チームとしても余計に出しづらかったのでは。

大神 それもあるでしょうし、自分自身を振り返っても、当時の女子日本代表のガードには三木(現姓・中村)聖美さんがいて、ポイントガードのポジションをしっかり確立できていたかといえばそうじゃなかったんです。だからまずは日本代表でポジションを確立しなければいけないなという思いもあった分、当時の優先順位はまだ日本代表にあったのかな。自ら日本代表を背負っていくという覚悟のほうが、その当時は強かったですね。

――その後、大神さんは2008年にWNBAでプレーしました。そのとき萩原さんに何か相談をしましたか?

大神 オーさんからメッセージをもらったのは「私が日本人としてWNBAのトレード第1号だからね」って(笑)。チームはフェニックス・マーキュリーで一緒でしたから。

――萩原さんはサクラメント・モナークスからフェニックスに移籍をしている。

大神 そう、そのトレードが(日本人としては)1号だよと。「だからシンも何かの1号になれるように」って言われて、私が作ったのは日本人で初めてファウルアウトをしたという記録です(笑)。

萩原 (爆笑)

大神 私、たぶん12分くらいで6回ファウルをしました。最後はチャージングで退場しました。

萩原 すごい……そうなんだ。

大神 アトランタ・ドリーム戦でした。だからアドバイスというよりも、WNBAを経験したオーさんならではのエールを送ってもらいました。

文・三上太 写真・安井麻実